回想45
上方落語ファンの皆様、おまっとうさんでした。
今から7-8年前
上方落語の寄席が札幌には少なすぎる。
「ほたら
噺家さん呼ぼうか。。。」
(詳細については当ホームページの新着情報の回想1からをご覧ください)
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「どなたにお越し願えばいいのか?」
これは結構。。大変でした。
全く縁故などもなく。。💦
2015年、年頭から3月の約3ヶ月の間
色々と当たってみましたが
なかなかいいお返事を頂ける噺家さんに巡り会えず。。。
そんな中
偶々のご縁で笑福亭生喬師匠とめぐり合いました。
(詳細は。。。
お時間ございましたら回想1からをご覧ください)
それから
2015年秋から2016年の秋までの1年間に約15回の生喬師匠の
落語会を開催。
徐々にお客様もお越しになられて
「上方落語をきいてよの会ーさっぽろ」
という会なので生喬師匠の会も毎年開催しながら当会の主任になって頂ける他の師匠のご紹介をお願いしました。
そこで
生喬師匠のご紹介で宗助師匠(現 八十八師匠)の次に紹介して頂いたのが林家染左(はやしや そめざ)師匠でした。
2016年9月に生喬師匠から林家染左師匠の当方の落語会ご参加の件のメールを頂き
それから2カ月後の11月に生喬師匠、宗助師匠にご挨拶させて頂いているミナミの割烹でご挨拶させて頂きました。
最初の印象は随分、背が高いなぁと思いました。
学生時代、落語をされており最初は卒業されて学芸員をされていたとの事。(染左師匠は阪大卒業です。。。)
転機になったのは阪神大震災で震災復興時に師匠が素人の頃にお兄さんと一緒に被災者支援活動の一環で落語の慰問に行かれた折に、被災者の皆様が喜ばれている姿を見て。。
又 それとともに、師匠ご自身が震災を目の当たりにされて
「人間いつ死ぬかわからない。日々悔いのない生き方をしたい」と感じたというのも、転職して噺家になろうとされた大きな要因であったそうです。
師匠は噺家になるにあたって、仕事を辞めてから親に言われたので、お父様は既に他界されており、
お母さまは怒るというか呆れるというか、納得はされておられなかったようですが結局、師匠に押しきられた格好であったそうです。
そして 1996年8月に林家染丸師匠に入門されました。。